断片集

倫理や宗教に生の意味を求めるという私の理念は、これを志して以来 一切の内実も伴わない幻想に過ぎなかったに違いない、という考えがどんどん現実感を帯びて私の内から外から迫ってくるのだ。要は意味なんてないのに――意味なんてものは此世のどこを見てもありそうになくて、それだけのことだったら私は何を悩むこともなく生きていけただろうに、この意味というやつが、私たちが楽しんできた物語のような、想像力のもたらす世界、ある種の彼世にはあるように見えて、この錯覚じみたものが、私にどうしようもない欠乏感として現れてくる。そう考えたときに、倫理や宗教、さらには国家や社会や歴史や正義といった理念までも含めたあらゆるものが、全てこのどうしようもない生の現実の世界の想像的=創造的な再解釈によって産出されてきた彼岸の産物に過ぎないのではないかという疑念だって生じてくる。全部が全部ある種の創作物に過ぎないのだとしたら、これら種々の物語のうちから一つだけ優先して選択しなければならないものなどありえるだろうか? いや、もっと言うならばだ――こういった、今までずっとありうべき理念として信じてきたもの、私はこれをナマの人間のあり方に還元してしまって、すっかりめっきが剥れてしまったように感じてしまっているわけだ。だったらどうして最初から現実の再解釈としての物語に固執する必要がある? 純真の物語に生きてしまえばいいじゃないか?


自分の生きている生活がいくつもあって、その全部が偽物で、本当にいるのは自分の部屋で何もしないでいる自分だけなのだ。それぞれの生活をしている自分が勝手に自己主張を始めてここに混ぜ込もうとしている。


この世界において唯一可能かつ妥当な人生観と世界観のもとに生きることが、私にはどうしてもできなかった。

そもそも私は、そのような理念を欲していただろうか? 私が生きたい人生、私がその中において自身を表現したい世界は、そういった妥当性を一切合わせ持っていなかったのではないか? 然り、この世界の現実性を正面から受け入れ、その上でのみ可能であるような生のあり方に従うなどということは、どれほど私の理性が欲しようとも、私の全体性がそれを拒むような、そういう無理な芸当だったのだ。ある意味では、かの理念を私は欲しなかった。その責めは私自身に帰すべきものとなろう。だが今や、かの理念は私に適合しないものであると認識せざるを得なくなったのだ。


私は生きています。彼は死にました。もしいつの日か彼が全てを受け取り直す日が来るというのであれば、その日のために祈ってください。

彼は己が無力と薄弱とを呪い、また己が無力と薄弱がために報いを受けました。彼は一方では正当にも、しかしながら他方においては愚鈍なことに、この報いを甘んじて受け入れて、じわりじわりと死んで行きました。気がついたときには自らの亡骸が足許に無惨にも転がっていたのでした。これをしかと認めたのち、彼は安き道をふらりふらりと歩み続け、私の許を去ったのでした。

どうか彼のために祈ってください。ああ、しかし、実際のところ、この地上において彼のために祈るようなかたがおいででありましょうか。


しかし今日になって私は思うのです。「彼」は死に切れたのでしょうか? 私の許を去った「彼」は、今も幽霊のように私の周囲を彷徨っておりはしまいか! あるいは、「彼」が遺した亡骸を葬るというひとつの義務を、私は負わされたのではなかったか!

亡き彼の頭をいざ展いて観察してみると、私の眼に映る限り、書き記すべきものはなにひとつ見当たらなかった。私の耳に届く限り、何の音も聴こえはしなかった。

なにひとつ見当たりはしなかった。